ヒト内在性レトロウイルス (human endogenous retrovirus; HERV;注1) はゲノムに存在するジャンクDNA(注2)の一種です。HERVの一部はエンハンサー(注3)として働き、近傍に存在する遺伝子の発現に様々な影響を与えます。HERVのエンハンサー活性は、一部のがん細胞において特に活性化していることが知られています。腫瘍において多数のHERVが一度に活性化すると、HERV近傍に存在する多数の遺伝子の発現が変化し、腫瘍の形質が大きく変化する可能性がありますが、この可能性は検証されていませんでした。
本研究では、The Cancer Genome Atlas (TCGA) コンソーシアム(注4)の提供する12種類のがんの腫瘍マルチオミクスデータ (5,470人分) を解析することで、腫瘍におけるHERVの活性化が遺伝子発現および形質に与える影響を解析しました。その結果、一部の患者の腫瘍において多数のHERVが協調的に活性化していること、さらに、活性化したHERVはエンハンサーとして働くことでKRAB zinc-finger protein (KZFP) ファミリー遺伝子(注5)の発現を誘導することが明らかになりました。
KZFPは強力な抑制性転写因子であるため、腫瘍におけるKZFPの発現上昇は様々な遺伝子の発現を変化させ、腫瘍の形質を変化させる可能性があります。そこで、がん細胞におけるKZFPの機能を、培養細胞を用いた実験により検証したところ、KZFPの発現上昇はがんの進行に関わる様々な遺伝子の発現を低下させ、がん細胞の増殖、遊走および浸潤を抑制することが明らかになりました。さらに、腫瘍におけるHERVおよびKZFPの活性化状態とがん患者の病態の関連を解析したところ、HERVおよびKZFPの活性が高い患者ほど良好な病態を示す傾向にあることが分かりました。
本研究の結果から、腫瘍におけるHERVの活性化は、KZFPの発現を誘導することで、腫瘍の進行に対し抑制的に働くことが示唆されました (図)。

A) がん患者間に見られるHERV/KZFP活性の違い。腫瘍におけるHERV/KZFPの活性が高い患者ほど、予後良好あるいは初期がんである傾向にあり、がんの進行に関与する増殖および遊走・浸潤関連遺伝子の発現が低い傾向がある。
B) 予想されるHERV/KZFPの腫瘍における機能。腫瘍において活性化したHERVは、エンハンサーとして近傍に存在するKZFPの発現を誘導する。抑制性転写因子であるKZFPの発現上昇は、細胞増殖および遊走・浸潤関連遺伝子を含む多数の遺伝子の発現を抑制する。その結果、がん細胞の増殖および遊走・浸潤が抑制され、腫瘍の進行に対し抑制的に働くと考えられる。
本研究成果は、2020年10月21日米国科学雑誌「Science Advances」のオンライン版で公開されました。
(注1)ヒト内在性レトロウイルス (human endogenous retrovirus; HERV)
古代のレトロウイルスに由来するトランポゾンであり、ゲノムの反復配列の一種。ヒトゲノムの8%程度を占める。長年、HERVはゲノムに寄生する「ジャンクDNA」の一種であると考えられてきた。しかし近年、遺伝子やプロモーター・エンハンサー等の転写調節配列として働き、ヒトの生理機能を担うHERVが相次いで発見されており、ゲノムの機能エレメントとして再定義が進みつつある。
(注2)ジャンクDNA
ゲノムに存在する「機能を持つか分からないDNA」の総称。がらくた遺伝子とも。ゲノムに寄生する可動性のDNA因子であるトランスポゾン、および遺伝子に類似した配列を持つがタンパク質をコードしない偽遺伝子等が含まれる。ヒトゲノムの大半はジャンクDNAで構成される。
(注3)エンハンサー
遺伝子の発現を正に制御するDNA配列。様々な転写因子 (DNAに結合し、遺伝子の発現調節に関与するタンパク質) が結合することで機能する。近年、一部のエンハンサーはHERVに由来する配列から構成されていることが明らかとなってきた。
(注4)The Cancer Genome Atlas (TCGA) コンソーシアム
米国の超大型がんゲノムプロジェクト。33種類、20,000サンプルの腫瘍について、ゲノム、エピゲノム、トランスクリプトーム、およびプロテオーム等のマルチオミクス情報、および臨床情報を公開している。
(注5)KRAB zinc-finger protein (KZFP) ファミリー遺伝子
抑制性転写因子をコードする遺伝子ファミリー。KZFPは遺伝子のプロモーター等に結合することにより、遺伝子の発現を抑制する。KZFP遺伝子ファミリーは高等脊椎動物における最大の転写因子遺伝子ファミリーであり、ヒトゲノム中には400遺伝子ほど存在する。