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がん細胞における隠れた翻訳開始現象の網羅的解明 ――リアルタイム検索技術を用いた超深層プロテオミクスによる解析――

発表のポイント
  • ヒトがん細胞において、非標準的な翻訳開始部位から生成されるタンパク質の存在をプロテオームレベルで初めて明らかにしました。
  • 最先端の質量分析計を用いたリアルタイム検索プラットフォームと独自の配列データベースを活用し、これまで見過ごされてきた約800個の新規ペプチド断片を同定・定量しました。
  • 細胞増殖に関わるEGF-mTORシグナルが、これら非標準的なタンパク質の生成を特異的に制御していることを解明し、これにより、がんの病態理解や創薬研究への貢献が期待されます。
    ヒトがん細胞から同定された「隠れた翻訳産物」のシステム動態制御

 概要

東京大学医科学研究所附属疾患プロテオミクスラボラトリーの尾山大明准教授、秦裕子シニアエキスパート(技術)らによる研究グループは、がん細胞における「隠れた翻訳開始(Cryptic translation initiation)」の実態をシステムレベルで包括的に解明することに成功しました。

これまでの分子生物学の定説では、タンパク質の翻訳はmRNA上の最初の開始コドン(AUG)から始まるとされてきました。本研究では、質量分析装置(Orbitrap Eclipse Tribrid)に実装されたリアルタイム検索(RTS)プラットフォーム(注1)と、独自に構築したアミノ酸配列データベース(dMet-TPS)を組み合わせることで、通常の解析では検出が困難である非標準的な翻訳産物を世界で初めて網羅的に計測しました。その結果、約800個の新規ペプチド断片を同定し、特に膠芽腫(注2)患者由来細胞において、上皮成長因子EGFの刺激に伴い、mTORシグナル(注3)を介してこれらの翻訳産物が動的に制御されていることを明らかにしました。この研究成果は、がん細胞におけるタンパク質の多様性と複雑性の理解を飛躍的に高めるものであり、今後の疾患研究に大きく寄与することが期待されます。

本研究成果は2026年5月28日付で、国際科学雑誌「Genome Biology」オンライン速報版に掲載されました。


 発表内容

これまでの研究では、タンパク質翻訳は主に「最初のAUG」から始まると考えられており、公共のデータベースもこの規則に基づいた配列情報を中心に構築されてきました。実際のがん細胞内ではそれ以外の場所から翻訳が始まる可能性が示唆されていたものの、その全容をプロテオームレベルで包括的に捉える手法は確立されていませんでした。

今回、本研究チームは最先端の質量分析技術に着想を得て、下流のAUGから翻訳が開始される場合に生成する予測ペプチド配列を含む独自のカスタマイズデータベース(dMet-TPS)を構築しました(図1)。
図1:隠れた翻訳開始部位を同定するためのデータベース構築戦略

標準的なタンパク質配列(例:IL9)から、下流にあるメチオニン(M)を起点とする新規ペプチド断片を網羅的に予測・抽出し、独自の検索用データベースを作成しました。


質量分析測定中にリアルタイムでデータを検索・判断するRTSプラットフォームにこのデータベースを導入することで、従来の手法を凌駕する高深度プロテオーム解析を実施しました(図2)。
図2:リアルタイム検索(RTS)を用いた高精度定量プロテオミクス解析の概要

がん細胞(GB2細胞及びHeLa細胞)を薬剤刺激し、TMT法(注4)で標識したサンプルを最先端の質量分析計で解析しました。RTS技術により、構築したデータベース上のペプチドのみを狙い撃ちして高精度に測定することが可能となりました。


2種類のヒトがん細胞に関するプロテオーム解析の結果、標準的なタンパク質配列からは生成されない794個の新規ペプチド断片が同定されました(図3)。特に、膠芽腫患者由来のGB2細胞を用いた解析においては、細胞増殖を促すEGF刺激によってこれら非標準的なタンパク質産物がmTORシグナル依存的に顕著に増加することが確認されました。
図3:ヒトがん細胞から同定された「隠れた翻訳産物」とその動態

(A) GB2細胞とHeLa細胞から同定された新規タンパク質の数。 (B) 翻訳開始部位が従来の開始メチオニンからどの程度離れているかの分布。 (C) mTOR阻害剤(Torin 1)の有無による新規タンパク質の発現変動。EGF刺激による増加がmTOR阻害により抑制される様子が示されています。


これらの「隠れた翻訳開始」によって生成されるタンパク質は、本来備わっているべき機能ドメインを欠いた「未成熟な」構造である場合が多く、そのようなタンパク質ががん細胞の生存や運命決定に深く関わっている可能性が示されました。本研究は、がん細胞におけるプロテオームレベルの翻訳制御に関する新たなランドスケープを提示した世界初の成果であり、薬剤添加による翻訳ダイナミクスの変化を評価する基盤技術としても幅広い応用が期待されます。

なお、本研究は東京大学医科学研究所における倫理審査委員会の承認(承認番号:2024-56-1002)のもと、実施されました。


 発表者・研究者等情報

東京大学
 医科学研究所 附属疾患プロテオミクスラボラトリー
  尾山 大明 准教授
  秦 裕子 シニアエキスパート(技術)
  廣木 朋子 学術専門職員
  北村 亜矢 学術専門職員
  宮村 尚明 学術専門職員(研究当時)

 定量生命科学研究所 附属高度細胞多様性研究センター
  秋山 徹 特任教授

 国際高等研究所 新世代感染症センター
  井上 純一郎 特任教授

 大学院工学系研究科 バイオエンジニアリング専攻
  津本 浩平 教授
 


 論文情報

雑誌名:Genome Biology
題 名:Real-time search-assisted multiplexed quantitative proteomics reveals system-wide cryptic translation initiation in human cancer cells
著者名:Hiroko Kozuka-Hata, Tomoko Hiroki, Aya Kitamura, Naoaki Miyamura, Tetsu Akiyama, Jun-ichiro Inoue, Kouhei Tsumoto, Masaaki Oyama*
(*Corresponding author)
DOI: 10.1186/s13059-026-04120-z
URL: https://link.springer.com/article/10.1186/s13059-026-04120-z


 研究助成

本研究は、科研費「学術変革領域研究(A)(課題番号:21H05280)」の支援により実施されました。


 用語解説

(注1)リアルタイム検索(RTS)プラットフォーム 
質量分析装置での測定中に、取得したスペクトルを即座にデータベースと照合し、特定の条件を満たす標的イオンのみを検出・定量する技術です。

(注2)膠芽腫
最も悪性度が高い脳腫瘍の1つ。本研究では、患者由来の「GB2細胞」に関するプロテオーム解析が行われました。

(注3)mTORシグナル 
細胞の成長、増殖、代謝を制御する中心的なシグナル伝達経路。タンパク質合成(翻訳)の開始段階を制御する上で中心的な役割を果たします。

(注4)TMT(Tandem Mass Tag)法 
異なるサンプル由来のペプチドを個別の質量タグで各々標識し、一括して質量分析を行うことで、複数のサンプルにおけるタンパク質発現量を同時に比較・定量する手法です。


 問合せ先

<研究内容について>
東京大学医科学研究所 附属疾患プロテオミクスラボラトリー
准教授 尾山 大明(おやま まさあき)
https://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/lab/proteomics/index.html

<機関窓口>
東京大学医科学研究所 プロジェクトコーディネーター室(広報)
https://www.ims.u-tokyo.ac.jp/

PDF版はこちらよりご覧になれます(PDF:710KB)