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日本では遺伝差別の禁止法は必要ないのか? ――四半世紀にわたる関連政策の概観と市民の意識調査からの検討――

発表のポイント
  • 遺伝情報による差別の防止に関連する日本の政策を概観するとともに、2017年と2022年に市民を対象に遺伝情報の利活用や法規制のニーズについて意識調査を行いました。
  • 2000年の「ヒトゲノム研究に関する基本原則」以降、国内では遺伝情報による差別の防止に関する具体的な施策が推進されず、断片的な議論に留まっていたことが明らかになりました。
  • 意識調査では、7割以上の回答者が遺伝情報による差別や不適切な取り扱いへの罰則のある法律が必要と回答し、法規制のニーズは、5年間で増加していることが明らかになりました。
 

 発表概要

東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センター公共政策研究分野の武藤香織教授らによる研究グループは、遺伝情報による差別防止に関連した日本の政策を概観し、遺伝情報の不適切な利用および遺伝情報による差別に対する、市民における法規制のニーズについて明らかにしました。

2000年、日本政府は「ヒトゲノム研究に関する基本原則」を発表し、遺伝情報による差別に対して厳しい姿勢を示しました。しかし、その後の数十年間、遺伝情報による差別防止に向けた施策は進展せず、この基本原則の内容は法令に盛り込まれることはありませんでした。そこで、私たちの研究グループは、2017年と2022年に一般市民を対象として、日本で遺伝情報による差別を受けた経験や差別防止のための罰則を伴う法律に関する意識などについて、インターネット調査を実施しました。

調査の結果、2017年、2022年ともに、回答者の約3%が、自身または家族が遺伝情報に関して何らかの不利益な扱いを受けた経験があると回答しました。また、2017年よりも2022年の方が、ゲノム医療など遺伝情報の利用に関する利点が高く評価され、遺伝情報の利用への懸念は低下していました。しかし、遺伝情報の不適切な利用や遺伝情報による差別に対する罰則付きの法律の必要性については、両年ともに7割以上が必要と回答し、2022年の方が増加していました。

2022年、超党派の国会議員連盟からゲノム医療推進と遺伝情報による差別防止を謳った法案が公表され、法律として成立する見込みです。この法律は罰則がありませんが、遺伝情報による差別を防ぐ施策形成の第一歩となると期待されます。さらに、ヒトゲノムとその多様性の尊重に関する教育や人々の意識の向上につながると期待されます。
本研究成果は6月8日、国際科学雑誌「Journal of Human Genetics」に公表されました。

 発表内容       

〈研究の背景〉
遺伝情報による差別(genetic discrimination)は、人に対する遺伝学研究における倫理的・法的・社会的課題の古典的な事例です。その定義は複数存在していますが、共通する特徴は、「遺伝的差異に基づく個人または集団の不公平または否定的な扱いを実際または認識すること」ですが、北米やヨーロッパと比較すると、東アジアでの議論や先行研究が不十分です。本論文では、これまでの日本の政策を概観するとともに、人々の意識に関する調査結果を検討し、取るべき方策を提案することを目的とします。

〈研究の内容〉
1. 遺伝情報による差別に関連する日本の施策
日本政府は2000年に「ヒトゲノム研究に関する基本原則」を発表しました。この基本原則には、「(研究試料)提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報が示す遺伝的特徴を理由にして差別されてはならない」(第16条)という項目が含まれ、法制定の必要性にも言及されていました。しかし、2001年に文部科学省、厚生労働省、経済産業省が共同で策定した「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」には反映されず、その後も法制度の拡充は進みませんでした。

2003年に日本の遺伝医療に関連する10学会が示したガイドラインでは、医療従事者に対して、遺伝学的検査を受けた人が教育、雇用(昇進を含む)、保険加入などの面で差別されないように対処するよう求めていました。しかし、これらの記述は、2011年に日本医学会のガイドラインとして改定された時にすべて削除され、2022年の改定時に一部が復活しました。

2015年に個人情報保護法が改正され、ゲノム医療に関わる情報の定義をするため、2016年に厚生労働省は「ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース」を設けました。しかし、その報告書では、日本に遺伝情報による差別を直接規制する法がないことは確認されたものの、現行法でできることの説明に留まっていました。

立法府では、2015年に超党派の国会議員が勉強会を結成し、2018年に「適切な遺伝医療を進めるための社会的環境の整備を目指す議員連盟」(以下、ゲノム議連)が発足したものの、法案作成に至らない状態が続きました。一方、政府が本格的なゲノム医療推進政策を開始したことから、2017年以降、患者コミュニティが遺伝情報による差別禁止法制を求めて、要望書の提出や集会の開催等の運動を開始しました。

2022年4月、日本医学会・日本医学会連合長、日本医師会長が、政府や国会等に遺伝情報による差別禁止の規制を求める共同声明を発表すると、5月に生命保険協会と日本損害保険協会から、現在、引受・支払実務において遺伝学的検査の結果は収集していない旨の見解が発表されました。同年10月、ゲノム議連から「良質かつ適切なゲノム医療を国民が安心して受けられるようにするための施策の総合的かつ計画的な推進に関する法律案」(以下、ゲノム医療法案)の内容が発表されると、学会、患者・家族会、産業界等約250団体が法案の早期成立を支持する運動を開始しました。本稿執筆時点(2023年6月5日)で、本法案は衆議院で可決され、参議院での審議が待たれています。

2. 市民における遺伝情報による差別に関する法規制のニーズ
日本の市民を対象として、2017と2022年に、遺伝情報による差別的な取り扱いを受けた経験や、遺伝情報の利用に関する期待や懸念、遺伝情報による差別や不適切な利用を防ぐための法規制のニーズに関して、意識調査を実施しました。

調査の結果から、2017年、2022年ともに、回答者の約3%が、自身または家族が何らかの遺伝情報による差別的な取り扱いを受けた経験があると回答しました。遺伝情報が病気の予防に役立つと思うと回答した人の割合は、2017年では65%、2022年では69%と増加していました(図1-1)。
図1-1 遺伝情報の利用に関する利点の評価
一方で、遺伝情報の不適切な取り扱いや、遺伝情報による差別の懸念があると回答した人の割合は減少していました(図1-2)。先行研究において、市民よりもがん患者とがん患者の家族の方が遺伝情報の利用や遺伝情報による差別に関する懸念が高いと報告されています。本研究では、回答者の健康状態や家族の病歴について検討していないため、遺伝情報の利用や遺伝情報による差別に関する懸念が減少しているという結果の解釈には注意が必要です。
図1-2 遺伝情報の利用に関する懸念の評価
 
遺伝情報の不適切な取り扱いや遺伝情報による差別に対して罰則のある法律が必要かについて尋ねたところ、2017年は71%、2022年は75%の回答者が、何らかの法規制が必要であると回答しました(図2)。項目別では、同意なく遺伝情報を第三者に提供・転売することに対する法規制を必要とする回答が最も多く、2017年は57%、2022年は63%でした。雇用における遺伝情報による差別については、2017年は47%、2022年は51%、民間保険における遺伝情報による差別については、2017年は39%、2022年は44%の回答者が罰則付きの法規制が必要と回答しました。
図2 遺伝情報の不適切な利用および遺伝情報による差別に対する法規制のニーズ

 

さらに、遺伝情報の不適切な取り扱いや遺伝情報による差別について、罰則付きの法規制のニーズに関連する回答者の特徴について分析した結果、女性、年齢が高いこと、遺伝学の知識が高いこと、遺伝情報の利用に関する利点を高く評価していること、遺伝情報の利用に関する懸念が高いこと、医療機関で遺伝学的検査を受けることに関心がある人が、より法規制の必要性を感じていることが示唆されました。

北米で行われた先行研究で、女性や高齢者はプライバシー懸念が高いと報告されています。女性や高齢者はプライバシー懸念が高いために、遺伝情報に関する法規制の必要性を強く感じているのかもしれません。また、民間保険における遺伝情報による差別に対する法規制のニーズが他の項目よりも低かったのは、日本には皆保険制度があるためかもしれません。雇用における差別に対する法規制について、回答者の約半数が法規制の必要性を認識していましたが、政府や産業医、雇用主、労働組合の間でまだ議論が行われていません。労働者に利益のある扱いと差別的な扱いの区別について、早急に検討が必要と考えられます。

結婚・妊娠をめぐる遺伝情報による差別については、欧米に比べてアジアで深刻な懸念があると指摘されており、本研究で実施した調査においても約4割が懸念を示しました。遺伝情報による差別を容認しないという法律ができることによって、ヒトゲノムや多様性を尊重する意識が高まり、このような私的な領域における差別への懸念の軽減につながると期待されます。

〈今後の展望〉
本調査は、日本における遺伝情報による差別の法規制について市民の意識を初めて明らかにしたものです。しかし、本調査の限界は、回答者の体験について客観的な検証は困難であることです。また、回収率の低さは、ゲノム医療全般への市民の関心の低さを反映している可能性があります。

罰則はありませんが、ゲノム医療法案が制定されれば、遺伝情報による差別の疑いがある事例への注目が集まり、その予防や社会的包摂への寄与が期待できます。しかし、本調査において罰則付きの法整備を望む声が多く、その数が増える傾向にあったことを政府は重く受け止めるべきです。

 

 発表者

東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター公共政策研究分野
武藤 香織(教授)
李 怡然(助教)
 
東京大学大学院新領域創成科学研究科
永井 亜貴子(特任研究員)〈研究当時:東京大学医科学研究所(特任助教)〉
 
国立国際医療研究センター臨床研究センター臨床研究統括部生命倫理研究室
高島 響子(室長)
 
京都府立医科大学医学部医学科 人文・社会科学教室
吉田 幸恵(博士研究員)
 

  論文情報

〈雑誌〉 Journal of Human Genetics
〈題名〉 Is legislation to prevent genetic discrimination necessary in Japan? 
            An overview of the current policies and public attitudes
〈著者〉 Kaori Muto*, Akiko Nagai, Izen Ri, Kyoko Takashima, Sachie Yoshida
            *責任著者
〈DOI〉 10.1038/s10038-023-01163-z
 

 研究助成

本研究は、厚生労働行政推進調査事業補助金 厚生労働科学特別研究事業「社会における個人遺伝情報利用の実態とゲノムリテラシーに関する調査研究(H28-特別-指定-020)」、AMED次世代がん医療創生研究事業「次世代がん医療創生研究事業のサポート機関運営(JP16cm0106001)」、AMEDゲノム医療実現バイオバンク利活用プログラム(ゲノム医療実現推進プラットフォーム・社会共創推進領域)「ゲノム医療・研究推進社会に向けた試料・情報の利活用とPPI施策に関する研究開発(JP22tm0424701)」、科研費「ゲノム解析の革新に対応した患者中心主義ELSIの構築(JP15H05913)」「がん遺伝子パネル検査の実装が患者・市民に及ぼす倫理的・法的・社会的課題の検討(JP18K09940)」の支援により実施されました。
 

 問合せ先

〈研究に関する問合せ〉
東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センター公共政策研究分野
教授 武藤 香織(むとう かおり)
 
〈報道に関する問合せ〉
東京大学医科学研究所プロジェクトコーディネーター室(広報)
 

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