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東京オリンピック開会式の感染リスクアセスメントと 対策の評価を行う初のシミュレーションモデルを開発
観客の新型コロナウイルス感染リスク評価を実施

発表のポイント
  • 環境曝露モデルを用いて東京オリンピック開会式に参加する観客における新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染リスク、および対策による低減効果を評価しました。
  • 対策なしのシナリオにおいては、開会式に参加したCOVID-19の感染性保有者1名あたり1.5~1.7人の新規感染者が発生するのに対し、主催者および観客の協力に基づく対策を行うことで、0.009~0.012人まで感染リスクを99%低減できると推定されました。
  • 本研究は、マスギャザリングイベント(多くの人が集まるイベント)において観客の感染リスクを経路別に評価したシミュレーションモデルを開発した初めての内容です。

 発表者

村上道夫1*、三浦郁修2、北島正章3、藤井健吉4、保高徹生5、岩崎雄一6、小野恭子6、島津勇三7、空野すみれ8, 9、奥田知明10、尾崎章彦11、片山琴絵12、西川佳孝13、小橋友理江14、澤野豊明15、阿部暁樹16、斎藤正也17、坪倉正治18、内藤航6、井元清哉12

1福島県立医科大学医学部健康リスクコミュニケーション学講座
2愛媛大学沿岸環境科学研究センター生態系解析部門
3北海道大学大学院工学研究院環境工学部門
4花王株式会社衛生科学研究センター
5産業技術総合研究所地質調査総合センター地圏資源環境研究部門
6産業技術総合研究所安全科学研究部門
7脳神経疾患研究所附属総合南東北病院麻酔科
8ロンドン大学衛生熱帯大学院・感染症・熱帯医学学科
9長崎大学熱帯医学・グローバルヘルス研究科
10慶應義塾大学理工学部応用化学科
11ときわ会常磐病院乳腺外科
12東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター健康医療インテリジェンス分野
13京都大学大学院医学研究科健康情報学分野
14ひらた中央病院内科
15仙台市医療センター仙台オープン病院消化器外科
16脳神経疾患研究所附属総合南東北病院リハビリテーション科
17長崎県立大学情報システム学部情報セキュリティ学科
18福島県立医科大学医学部公衆衛生学講座
* 責任著者
 

 概要

COVID-19パンデミックの影響で、2020年オリンピック・パラリンピックは2021年に延期されました。本研究では、東京オリンピックの開会式における観客の感染リスク、および対策による感染リスク低減効果を評価するために感染源−環境−受容体の経路を考慮したシミュレーションモデルを開発しました。本研究は、単にCOVID-19感染リスクの程度を評価することに着眼したのではなく、どのような対策を行うとどの程度の感染リスクの低減につながるかに重点を置いた「解決志向型のリスク評価」を行った点に特徴があります。

感染性保有者から放出される新型コロナウイルスのウイルス量をシミュレートし、ウイルスの不活性化や移動などの時間的な環境行動をモデル化しました。モンテカルロシミュレーション(※)により、対策を実施した場合と講じなかった場合のそれぞれにおいて新規感染者数の推定を行い、開会式に出席する6万人の観客の感染リスクを算出しました。

無対策シナリオでは、感染性保有者1人あたり1.5~1.7人の新規感染者が発生すると推定されましたが、主催者と観客が協力して対策を講じることで、99%のリスク低減が達成され、感染性保有者1人あたり0.009~0.012人となると推定されました。全ての対策を行うことで約0.01を達成した点は感染拡大予防の観点から顕著な意味があります。また、開会式に参加した6万人の観客における感染性保有者の割合(P0)が10万分の1のとき、開催者および観客の協力に基づく対策を行った場合の新規感染者の期待値は0.005人と推定されました。
本研究は、「感染性保有者1名あたりの新規感染者数」と「新規感染者数の期待値」という2つの視座を提供しました。ただし目的は東京オリンピック・パラリンピックの開催が可能であるかを判断することではなく、社会的議論のための情報の提供にあります。

本研究は、マスギャザリングイベント(多くの人が集まるイベント)において観客の感染リスクを経路別に評価したシミュレーションモデルを開発した初めての内容です。本研究は2021年3月21日、微生物のリスク分析に関する国際的な専門誌である「Microbial Risk Analysis」に掲載されました。

※モンテカルロシミュレーション:確率的な分布を設定し、乱数を用いた試行を繰り返すことで行うシミュレーション方法。

 

 背景・課題

COVID-19は世界的な流行を示しています。讃美歌やスポーツなどのマスギャザリングイベントは、COVID-19感染拡大の一つの経路と考えられています。物理的距離、マスク、ロックダウンなどの規制とともに、マスギャザリングイベントの自粛や延期も行われました。最大の国際イベントである東京オリンピック・パラリンピックは2020年7月に開催予定でしたが、2021年7月へと延期されました。

東京オリンピック・パラリンピックのようなマスギャザリングイベントにおいて、リスク評価に基づいた対策の重要性が増しています。東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたっては、マスギャザリングイベントのシンボルとして、科学と技術に裏打ちされた開催に関する議論と意思決定が必要です。とりわけ、COVID-19流行下において求められるのは、単に東京オリンピック・パラリンピック開催による感染リスクがどの程度あるかといった評価ではなく、対策などの効果の評価も含めた選択肢の提示を可能とするような解決志向のリスク評価です。不確実性を伴う中で、現在利用可能なデータと知見から、時宜にかなったリスク評価が必要とされます。そこで本研究では、東京オリンピックの開会式を例に観客のCOVID-19感染リスク評価、および考えられる対策の効果の評価を実施しました。

 

 今回の取り組み

【方法】
感染リスク評価には、公衆の感染の経時的な予測などを目的としたSIRモデルと環境曝露モデルがあります。COVID-19の感染経路として、感染性保有者からの直接曝露、直接吸引、環境表面接触、空気経由の4つがあり、諸対策の効果を評価するためには、それぞれの経路からの感染リスクを評価する必要があります。そこで我々は、環境曝露モデルを用いて、各経路からの曝露に伴う観客の感染リスクを評価しました(図1)。
 

図1 感染リスクの経路と対策
 

開会式の観客におけるCOVID-19の無症状の感染性保有者の割合(P0)を10-6(100万分の1)から10-4(1万分の1)、抗体保有者はいないと設定し、感染性保有者からせき、会話、くしゃみに伴って放出されるウイルス量を計算し、環境中の動態、不活化や表面移動などを時間ごとに算定することで、上述の4つの経路について、開会式に参加する6万人の観客への感染リスクを推定しました。

ここで、P0=10-6とは、スタジアムに入場した100万人中1人が無症状の感染性保有者であることを意味し、人口1000万人の地域において1.8人/日の新規感染者(無症状と有症状の両者を含む)の発生に相当し、P0=10-4は、180人/日に相当します。考慮した対策は、 (a)入退場時の物理的距離、(b)環境表面の除染、(c)スタジアム内の空気の換気、(d)観客席のパーティショニング、(e)マスク、(f)手洗い、(g)髪の防護の7つです。このうち(a)から(d)は主催者側、(e)から(g)は観客側が実施する対策です。曝露量に応じて感染リスクを算出し、それぞれのシナリオにおいて1000回のモンテカルロシミュレーションを行いました。



【結果】
対策を行わなかった場合の全体の感染リスクは、P0=10-6から10-4の範囲において、それぞれ、平均値として1.5×10-6から1.6×10-4でした(図2)。P0に対する平均感染リスクの比は、1.5~1.7でした。これは5時間の開会式(待ち時間・入退場含む)において、1人の感染性保有者が観客としてスタジアム内に入場することで、平均値として1.5~1.7人の新規感染者をもたらすことを意味します。
 

図2 対策なし時の感染リスク
(箱ひげの値は、2.5、25、50、75、97.5パーセンタイル値)
P0=10-4の場合において対策による低減率を見ると、個々の対策の効果は高くありませんが、主催者と観客側の全7つの対策を行うと99%の低減率を達成すると推定されました(図3)。
図3 対策あり時の全体の感染リスク(P0=10-4
(箱ひげの値は、2.5、25、50、75、97.5パーセンタイル値)

主催者と観客側の全7つの対策を行った場合の感染リスクは、P0=10-6から10-4の範囲において、平均値として1.2×10-8から1.1×10-6であり(図4)、P0に対する平均感染リスクの比は、0.009~0.012の範囲になります。これらの感染リスクを非感染者の観客人数と乗じることで、オリンピック開会式による新規感染者人数(平均値)は、P0=10-6から10-4の範囲において、0.0007人から0.064人と算定されました。
 
図4 全7つの対策あり時の全体の感染リスク(P0=10-4~10-6
(箱ひげの値は、2.5、25、50、75、97.5パーセンタイル値)
【考察】
本研究では、4つの曝露経路を設定し、感染リスクと対策による低減効果を評価しました。マスギャザリングイベントでの感染経路は多様であり、距離や換気、マスクといった個別の対策だけでは十分な低減率を達成することはできませんでした。一方、全ての対策を実施することで、99%の低減効果を達成したことから、東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたっては、主催者側だけの対策だけでなく、観客も協力して対策を実施することの重要性が示唆されました。

本研究の意図は、東京オリンピック・パラリンピックの開催が可能であるかを判断することではありません。東京オリンピック・パラリンピックの開催は、COVID-19流行下において、あるレベルのリスクが存在することを受け入れるかどうか、社会的討議によって決定されるものです。
 
本研究の意義は、解決志向リスク評価のアプローチによって、どのような対策を行えば、どの程度のリスクレベルが見込まれるかを示した点にあります。東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたっての感染リスクレベルの提示は、社会的討議にあたって必要不可欠な情報です。本研究では、2つの視座を提供しました。
 
一つは、P0に対する平均感染リスクの比です。この値は、1人の感染性保有者が観客としてスタジアム内に入場したときの新規に生じる感染者数の期待値を意味します。この指標に類似したものとして、基本再生産数(R0;1人の感染者が、抗体を保有しない集団において感染性保有期間中に感染させる人数を示す値)があります。一般に、R0が1未満の時、感染の拡大を防ぐことができるとされます。一方、本研究で考慮した感染リスクは5時間という限られた時間の開会式における事象であることに注意が必要です。本研究において全ての対策を行うことでP0に対する平均感染リスクの比が約0.01を達成した点は感染拡大予防の観点から顕著な意味があります。
 
もう一つの視座は、新規感染者数の期待値です。全期間中の東京オリンピック・パラリンピックの観客数は予定通りであれば1000万人程度とされています。仮に、東京オリンピック・パラリンピックの観戦による新規感染者数の期待値を10人未満にしたいのであれば、開会式と他のイベントでの感染確率が同じと仮定すると、P0が5×10-5未満である必要が、100人未満にしたいのであればP0が5×10-4未満である必要あると考えられます。これは、おおむね、人口1000万人あたり91人/日、910人/日の新規感染者数に相当します。なお、無症状者が存在することや検査に制限があることから、実際の新規感染者数は、検査によって確認された陽性者数よりも多いと考えられることに注意が必要です。
 
東京オリンピック・パラリンピック開催にむけて取り組むべきことはいくつかあります。本研究で示唆されたように、P0を低く抑えることおよびスタジアム内での主催者と観客の協力的対策の実施は必要不可欠だと考えられます。加えてスタジアム外での人の移動や集中による感染リスクなども含めて、東京オリンピック・パラリンピック総体としての観客のリスク評価と管理、選手やスタッフのリスク評価と管理も求められます。様々な困難が想定される中で、今、科学に求められる役割は解決志向性をもった客観的知見の集積と視座の提示と我々は考えます。
 

 今後の取り組み

人の移動や集中による感染リスクなども含めた、スタジアム外での観客の感染リスクの評価と対策の評価、選手やスタッフのリスク評価と管理方法についても取り組むことで、効果的な対策の提案を目指します。さらに、オリンピック以外の様々な人が集まるイベントを対象にしたリスク評価も進めるとともに、実際に実施されたイベントにおいて換気や人の動態などの調査を行い、効果的な具体的対策を提案してきます。科学的知見によって人々が元気づけられる社会へと前進できるよう、研究を進めていく計画です。
 

 注釈

本研究の解釈における注意事項:
本研究では、抗体保有者がいないと仮定しています。仮に、観客の半分が抗体を保有していれば、感染リスクは1/2になります。抗体保有者が増えることは、市中の感染率が低下し、P0が低くなることに加えて、スタジアム内での感染リスクの低減にも寄与します。
本研究で明らかにしたのは、スタジアム内での感染リスクであり、人の移動や集中によって発生する可能性があるスタジアム外での感染リスクについては対象としていません。
また、変異株による感染リスクの増加については考慮されていません。
本研究における不確実性:
ヒトにおける唾液中のSARS-CoV-2の感染価が不明だったため、フェレットの値を用いました。用量反応式(ウイルスの曝露量と感染リスクの関係式)でも、マウスのSARS-CoVの値を用いました。
ウイルス排出量については、声の大きさによる唾液量の差異などは加味しませんでした。唾液中のウイルス量は、容量あたりのウイルス量として一定としましたが、粒径によって容量あたりのウイルス量が異なる可能性もあります。
本研究では、指や髪におけるウイルスの不活化は考慮しませんでした。また、大きな粒子に付着したウイルスに対してはマスク着用による除去効果を考慮した一方で、微細な粒子に付着したウイルスの除去は加味していません。
感染性保有者が会話、せき、くしゃみを排出する方向については、例えば観客席においては隣に25%、前に50%と仮定しましたが、感染予防の意識によって、例えば人のいない方向に向かって排出するなどの行動も考えられます。
 

 論文情報

題目:COVID-19 risk assessment at the opening ceremony of the Tokyo 2020 Olympic Games
雑誌名:Microbial Risk Analysis
URL: https://doi.org/10.1016/j.mran.2021.100162(オープンアクセス)
掲載日:2021年3月21日
 
 

 本件に関するお問い合わせ先

東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター
教授・センター長 井元 清哉 (いもと せいや)
〒108-8639 東京都港区白金台4-6-1
 
 
福島県立医科大学医学部健康リスクコミュニケーション学講座
准教授 村上 道夫(むらかみ みちお)
〒960-1295 福島県福島市光が丘1番地
 
報道機関お問い合わせ先
東京大学医科学研究所 国際学術連携室(広報)
〒108-8639 東京都港区白金台4-6-1

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