発表のポイント |
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発表者
村上道夫1*、三浦郁修2、北島正章3、藤井健吉4、保高徹生5、岩崎雄一6、小野恭子6、島津勇三7、空野すみれ8, 9、奥田知明10、尾崎章彦11、片山琴絵12、西川佳孝13、小橋友理江14、澤野豊明15、阿部暁樹16、斎藤正也17、坪倉正治18、内藤航6、井元清哉121福島県立医科大学医学部健康リスクコミュニケーション学講座
2愛媛大学沿岸環境科学研究センター生態系解析部門
3北海道大学大学院工学研究院環境工学部門
4花王株式会社衛生科学研究センター
5産業技術総合研究所地質調査総合センター地圏資源環境研究部門
6産業技術総合研究所安全科学研究部門
7脳神経疾患研究所附属総合南東北病院麻酔科
8ロンドン大学衛生熱帯大学院・感染症・熱帯医学学科
9長崎大学熱帯医学・グローバルヘルス研究科
10慶應義塾大学理工学部応用化学科
11ときわ会常磐病院乳腺外科
12東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター健康医療インテリジェンス分野
13京都大学大学院医学研究科健康情報学分野
14ひらた中央病院内科
15仙台市医療センター仙台オープン病院消化器外科
16脳神経疾患研究所附属総合南東北病院リハビリテーション科
17長崎県立大学情報システム学部情報セキュリティ学科
18福島県立医科大学医学部公衆衛生学講座
* 責任著者
概要
COVID-19パンデミックの影響で、2020年オリンピック・パラリンピックは2021年に延期されました。本研究では、東京オリンピックの開会式における観客の感染リスク、および対策による感染リスク低減効果を評価するために感染源−環境−受容体の経路を考慮したシミュレーションモデルを開発しました。本研究は、単にCOVID-19感染リスクの程度を評価することに着眼したのではなく、どのような対策を行うとどの程度の感染リスクの低減につながるかに重点を置いた「解決志向型のリスク評価」を行った点に特徴があります。感染性保有者から放出される新型コロナウイルスのウイルス量をシミュレートし、ウイルスの不活性化や移動などの時間的な環境行動をモデル化しました。モンテカルロシミュレーション(※)により、対策を実施した場合と講じなかった場合のそれぞれにおいて新規感染者数の推定を行い、開会式に出席する6万人の観客の感染リスクを算出しました。
無対策シナリオでは、感染性保有者1人あたり1.5~1.7人の新規感染者が発生すると推定されましたが、主催者と観客が協力して対策を講じることで、99%のリスク低減が達成され、感染性保有者1人あたり0.009~0.012人となると推定されました。全ての対策を行うことで約0.01を達成した点は感染拡大予防の観点から顕著な意味があります。また、開会式に参加した6万人の観客における感染性保有者の割合(P0)が10万分の1のとき、開催者および観客の協力に基づく対策を行った場合の新規感染者の期待値は0.005人と推定されました。
本研究は、「感染性保有者1名あたりの新規感染者数」と「新規感染者数の期待値」という2つの視座を提供しました。ただし目的は東京オリンピック・パラリンピックの開催が可能であるかを判断することではなく、社会的議論のための情報の提供にあります。
本研究は、マスギャザリングイベント(多くの人が集まるイベント)において観客の感染リスクを経路別に評価したシミュレーションモデルを開発した初めての内容です。本研究は2021年3月21日、微生物のリスク分析に関する国際的な専門誌である「Microbial Risk Analysis」に掲載されました。
※モンテカルロシミュレーション:確率的な分布を設定し、乱数を用いた試行を繰り返すことで行うシミュレーション方法。
背景・課題
COVID-19は世界的な流行を示しています。讃美歌やスポーツなどのマスギャザリングイベントは、COVID-19感染拡大の一つの経路と考えられています。物理的距離、マスク、ロックダウンなどの規制とともに、マスギャザリングイベントの自粛や延期も行われました。最大の国際イベントである東京オリンピック・パラリンピックは2020年7月に開催予定でしたが、2021年7月へと延期されました。東京オリンピック・パラリンピックのようなマスギャザリングイベントにおいて、リスク評価に基づいた対策の重要性が増しています。東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたっては、マスギャザリングイベントのシンボルとして、科学と技術に裏打ちされた開催に関する議論と意思決定が必要です。とりわけ、COVID-19流行下において求められるのは、単に東京オリンピック・パラリンピック開催による感染リスクがどの程度あるかといった評価ではなく、対策などの効果の評価も含めた選択肢の提示を可能とするような解決志向のリスク評価です。不確実性を伴う中で、現在利用可能なデータと知見から、時宜にかなったリスク評価が必要とされます。そこで本研究では、東京オリンピックの開会式を例に観客のCOVID-19感染リスク評価、および考えられる対策の効果の評価を実施しました。
今回の取り組み
【方法】感染リスク評価には、公衆の感染の経時的な予測などを目的としたSIRモデルと環境曝露モデルがあります。COVID-19の感染経路として、感染性保有者からの直接曝露、直接吸引、環境表面接触、空気経由の4つがあり、諸対策の効果を評価するためには、それぞれの経路からの感染リスクを評価する必要があります。そこで我々は、環境曝露モデルを用いて、各経路からの曝露に伴う観客の感染リスクを評価しました(図1)。

図1 感染リスクの経路と対策
開会式の観客におけるCOVID-19の無症状の感染性保有者の割合(P0)を10-6(100万分の1)から10-4(1万分の1)、抗体保有者はいないと設定し、感染性保有者からせき、会話、くしゃみに伴って放出されるウイルス量を計算し、環境中の動態、不活化や表面移動などを時間ごとに算定することで、上述の4つの経路について、開会式に参加する6万人の観客への感染リスクを推定しました。
ここで、P0=10-6とは、スタジアムに入場した100万人中1人が無症状の感染性保有者であることを意味し、人口1000万人の地域において1.8人/日の新規感染者(無症状と有症状の両者を含む)の発生に相当し、P0=10-4は、180人/日に相当します。考慮した対策は、 (a)入退場時の物理的距離、(b)環境表面の除染、(c)スタジアム内の空気の換気、(d)観客席のパーティショニング、(e)マスク、(f)手洗い、(g)髪の防護の7つです。このうち(a)から(d)は主催者側、(e)から(g)は観客側が実施する対策です。曝露量に応じて感染リスクを算出し、それぞれのシナリオにおいて1000回のモンテカルロシミュレーションを行いました。
【結果】
対策を行わなかった場合の全体の感染リスクは、P0=10-6から10-4の範囲において、それぞれ、平均値として1.5×10-6から1.6×10-4でした(図2)。P0に対する平均感染リスクの比は、1.5~1.7でした。これは5時間の開会式(待ち時間・入退場含む)において、1人の感染性保有者が観客としてスタジアム内に入場することで、平均値として1.5~1.7人の新規感染者をもたらすことを意味します。

(箱ひげの値は、2.5、25、50、75、97.5パーセンタイル値)

(箱ひげの値は、2.5、25、50、75、97.5パーセンタイル値)
主催者と観客側の全7つの対策を行った場合の感染リスクは、P0=10-6から10-4の範囲において、平均値として1.2×10-8から1.1×10-6であり(図4)、P0に対する平均感染リスクの比は、0.009~0.012の範囲になります。これらの感染リスクを非感染者の観客人数と乗じることで、オリンピック開会式による新規感染者人数(平均値)は、P0=10-6から10-4の範囲において、0.0007人から0.064人と算定されました。

(箱ひげの値は、2.5、25、50、75、97.5パーセンタイル値)
本研究の意図は、東京オリンピック・パラリンピックの開催が可能であるかを判断することではありません。東京オリンピック・パラリンピックの開催は、COVID-19流行下において、あるレベルのリスクが存在することを受け入れるかどうか、社会的討議によって決定されるものです。