ご挨拶:コラム

アメリカ留学

 私が米国に留学したのは1989年4月である。留学と言えばヨーロッパと何となく考えていた私が米国に留学することになったのは、1985年に上司につれられて初めて渡米したことがきっかけとなった。当時、太平洋路線の中心的存在であったパンアメリカン(通称パンナム)航空機でサンフランシスコに飛び、そこから国内線で米国中部のソルトレークシティーに到着した。このソルトレークシティーへ行く飛行機の窓から見た広大なユタ・ネバタの砂漠の景色は今だに忘れることができない。初めてアメリカという国に興味を持った。またパークシティというスキー場で行われた学会UCLAシンポジウム(現在のキーストンシンポジウム)では発表内容もさることながら、1つ1つの発表が終わるや否やマイクの前に質問のために10人以上の人が列を作るという活発な議論には圧倒された。上司は先に帰国し、私はパークシティでスキーと学会を満喫し多くの人と知り合うことができた。ただ、英語でのコミュニケーションは初体験で大変難しかった。

 帰りのソールトレークシティーからサンフランシスコへのフライトがキャンセルされ、サンフランシスコ空港では、ほんの数分の差で乗り遅れたパンナム機が私の眼の前で悠然と滑走路へ出て行くのを見送ることになった。この結果一日帰国が遅れたことは、その後の私の運命を変えたのかも知れない。不思議なことにそのときの私がどんな気持ちだったかは全く覚えていないが、ただ眼の前をパンナム機が滑走していく姿だけを鮮明に覚えている。もしその飛行機に間に合っていたら、その後の私はどのような道をたどったのであろうか?今でもときどき考えることがある。とにかくおかげでサンフランシスコに一泊することになり、その一泊が私のその後の10年を決めた。昼間はゴールデンゲートブリッジが見える市営のゴルフ場でプレイし、夜はフィッシャーマンズワーフで明け方までストリートミュージシャンの演奏を聞き、本当にサンフランシスコが気に入った私はサンフランシスコ近郊に留学しようと心に決めた。また1日遅れたおかげでパンアメリカン航空の太平洋路線最後という歴史的な日に搭乗できたのもよい思い出となった。このような経緯にさらにいくつかの偶然がかさなり私は1989年4月から1996年12月までの約8年間をサンフランシスコ空港から30km南にあるパロアルトという町で過ごすことになった。

 さてパロアルトのDNAX分子生物学研究所に留学した私は、それまで大学で臨床をしながら研究し生計はアルバイトでたてるという余裕のない生活から、すべての時間を研究に使うことができるという環境に移り研究に没頭した。はじめの2年間は研究以外の時間は週に1ー2回のゴルフだけで、あれほど気に入ったサンフランシスコの街に行くこともなかった。1年目は実験で予想通りの結果が得られず、出口のないトンネルに入ってしまったような感じで焦燥感を感じた。ところがその半年後の1990年10月17日に、ある遺伝子を同定することによって、ついに我々の仮説を証明する実験結果を得ることができた。それは良く晴れた土曜日の午後のことで、私の研究生活のなかで今までに一番嬉しかった瞬間である。この結果を翌年一流科学誌に発表することができたのも良かったが、それにもまして私にとって重要だったのは、この研究でDNAX研究所においてHajimeMemorialAwardという賞のコンテストで発表できたことである。HajimeMemorialAwardはDNAX研究所で不幸にも実験中に亡くなられた大学院生萩原肇君を追悼する意味で設けられた賞で、毎年一番良い仕事をした博士研究員に与えられる。基金は萩原君のご両親のご寄付によっている。審査は、書類選考で選ばれた3人の候補者が審査員の前で20ー30分のプレゼンテーションを行い決定される。審査員は、コーンバーグ博士、バーグ博士、ヤノフスキー博士という分子生物学の創始者とも言えるメンバーに上代淑人先生を加えた豪華な顔ぶれで、2人はノーベル賞受賞者でもある。このようなメンバーの前で発表する機会はめったにないことであり、発表前日は朝まで何回も何回も繰り返し練習を行った。それでも審査するメンバーのことを考えると緊張を覚悟で一睡もしないままプレゼンテーションに臨んだ。ところが発表を始めてすぐに、コーンバーグ、バーグ、ヤノフスキー、上代の各先生方が、審査をするというより発表を楽しんでいる雰囲気を感じ、不思議なことに全く緊張することなく楽しく発表することができた。発表後、コーンバーグ博士が拍手してくれたのには感動を覚えた。また質疑応答のなかでも4人の先生方がサイエンスを大事にし楽しんでいらっしゃることを強く感じ感銘を覚えた。このプレゼンテーションを通じて私が学んだことは大きく、彼等のようになれないまでも少しでも近付きたいと思った気持ちは、今の私の研究を支える根幹である。

 自由な発想をし、楽しく議論し、そして一生忘れられないような素晴らしい実験結果がでる。こういう時間を若い人たちと共有できることを願い日々研究を続けている。サイエンスとは本来楽しむものである、と思う。