人癌病因遺伝子ホームページ 本文へジャンプ
分野長あいさつ


村上 善則

がんは日本人の死因の第一位を占める疾患です。2010年には33万人以上の方ががんで亡くなっておられます。近い将来、日本人の2人に1人が生涯のどこかでがんに罹患し、3人に1人ががんで亡くなる時代が来ると予想されます。私は、せっかく医学の道に進むのなら、この恐ろしい相手に何とか立ち向かいたいと思って、医学部学生時代に医科研の基礎研究室に通いはじめ、東大消化器内科での臨床、米国ユタ大学でのがんゲノム研究、国立がんセンター研究所でのがん抑制遺伝子研究などを経て、2007年から現在の東京大学医科学研究所人癌病因遺伝子分野に移り、若手教員や大学院生とともにがんの基礎研究を続けています。がんは恐ろしい病気だと書きましたが、そうはいっても数か月で急に生じることはごく稀です。肺がん、胃がん、大腸がんなど成人の当り前のがんは、年齢の6乗に比例し、長い年月をかけて発生、進展して次第に悪性度を増し、終には周囲組織に浸潤、転移して宿主を死に至らしめます。このがん細胞の第一義的な病変の場は、ゲノム、DNAにあり、様々ながん遺伝子、がん抑制遺伝子、DNA修復酵素遺伝子の異常が同一細胞に蓄積することにより発生すると考えられています。がんの主な病因が、環境、加齢、遺伝因子に集約できるのは、これらが細胞のゲノム、DNAに傷をつけ、変異や異常を誘発するからだと考えられます。これに、組織構築や免疫能など、細胞レベルでがんを抑え込む個体の能力の低下も加わってヒトのがんが生じると考えられます。そこで、ヒトのがんの制御を考えるとき、何がゲノムDNAに損傷を起こすのか、また、どのようなゲノム、遺伝子異常、遺伝子産物の異常が、どのように重なって、正常細胞をがん細胞に変えるのかということが重要になります。我々の研究室では、主に後者の研究を行っています。さらに、がん細胞のゲノム、遺伝子異常といっても、個々のゲノム、遺伝子の異常、つまりがん化の実行犯(gate keeper)を特定することと、なぜ一つのがん細胞に多数の異常が蓄積するのか、その黒幕となる変化(care taker)は何かを明らかにすることが共に重要です。そして、ゲノム・遺伝子、RNA、タンパク質、細胞、組織、動物モデル、ヒト病理組織、ヒト集団という広い階層を含めて癌を考え、その機構を明らかにしていきたいというのが、私の願いです。

    我々の研究室では、実行犯を捕まえる研究としては、肺がん(非小細胞肺がん)の抑制遺伝子として同定した細胞接着分子 CADM1の働きを、肺がんをはじめ様々なヒトのがんと正常組織の両方で研究しています。即ち、CADM1の分子経路の解析、細胞接着分子としての上皮における生理的機能やイメージングを用いた動態解析、タンパク質複合体の研究、遺伝子改変マウスを用いた個体レベルでの研究などを、桜井助教や坪井研究員が中心となって行っております。また、肺がんの発生に重要な遺伝子の同定や、抗がん剤・分子標的薬剤の感受性、耐性の分子機構の解明を、松原講師が中心となって進めています。さらに、タイ東北部で見られる肝吸虫感染によって誘発される胆道がんや、西日本を中心にみられレトロウイルス HTLV-1 によって惹起される成人T細胞白血病(ATL)についても、主として細胞接着異常の観点から研究を進めています。細胞接着の異常は、がんの浸潤、転移の初期段階と考えられますが、固形がんの患者の死因の90%以上は、浸潤、転移によることから、そのメカニズムを明らかにし、診断、治療の分子標的を確立することは、がんの制御を考える上で極めて重要な課題です。

    もう一つのテーマは、がん細胞にゲノム、遺伝子異常が多数蓄積する黒幕となる変化、つまりゲノム不安定性の一つとして最近注目を集めているコピー数多型 (Copy Number Variation:CNV)異常の、がんにおける実態を把握することです。ヒトのゲノムは、正常細胞では比較的安定に子孫細胞に受け継がれますが、この中に、構造的に変化を受けやすい配列が何種類か知られており、正常では個体差の基盤となるとともに、がん細胞ではゲノム、遺伝子変異蓄積の原動力になります。この中の1つが CNV という種類の配列で、数キロ塩基対から数メガ塩基対に至る大小さまざまなゲノムDNA断片の数がしばしば増加したり、減少したりします。この断片に単一、或いは複数の遺伝子が含まれていると、一定の遺伝子のコピー数が人によって変化したり、がん細胞では正常細胞と異なる働きを示したりします。この実態を、乳がんや胆道がん、泌尿器がん、頭頸部がんなどについて明らかにしようとしています。

    東大医科研は、昨年伝染病研究所以来、創立120周年を迎えましたが、昔から学内外、国内外に開かれた自由、闊達な雰囲気に満ち、医科学研究をするには大変恵まれた環境です。ここで、若手研究者や留学生を含む大学院生と一緒に、一喜一憂しながら、がんという強敵を相手に研究することを、私は何よりも楽しく思っています。ヒトのがんの研究に興味のある方、そして悪性がん細胞にも負けないエネルギッシュな方は、是非ご連絡ください。