Column

2020/8/13

拙稿「医学研究用語に対する一般市民の認知度・理解度調査 ― インターネット調査結果からの考察 ―」(神里彩子・吉田幸恵)が『臨床薬理』第51巻第4号に掲載されました。

「研究参加者にお渡しする説明文書はわかりやすく!」は、臨床研究の鉄則です。そのため、説明文書に対する患者さんの理解度に関する研究や説明文書の作成に関する研究が行われています。しかし、思い返すと、この業界に入る前、私は「介入研究」とか「前向き臨床研究」といった言葉を知りませんでした。これらの用語はいわゆる「業界用語」なのではないか?そうであれば、説明文書の中にフツーに登場するこれらの用語の説明なくして「わかりやすく!」は実現できないのではないか?このような問題意識から、基本的な12の医学研究用語に対する一般市民の認知度や理解度の把握を目的としてインターネット調査を行いました。
「認知度」調査では、回答者に「意味を理解している」「聞いたことがある」「聞いたことがない」から自己の状態を一つ選択してもらい、「意味を理解している」及び「聞いたことがある」の回答を以て「認知」しているとしました。「理解度」調査は、当該用語の説明として正しいと思うものを5つの選択肢から一つ選択してもらう方法で実施しました。1002の有効回答が得られ(有効回答率12.8 %)、各用語の結果(認知率、理解率)は―臨床研究(88.9%、18.0%)、治験(85.4%、14.5%)、疫学研究(54.6%、4.3%)、介入研究(10.9%、2.5%)、前向き臨床研究(12.8%、2.0%)、コホート研究(4.2%、0.7%)、第1相臨床試験(10.0%、2.6%)、インフォームド・コンセント(55.2%、9.9%)、倫理審査委員会(66.8%、23.7%)、二重盲検試験(6.8%、2.4%)、プラセボ(20.8%、14.2%)、無作為(ランダム)割り付け臨床試験(22.3%、6.4%)。やはり、ほとんどの医学研究用語について一般市民の認知度は低いこと、また、理解度は総じて極めて低いことがわかります。
医療者はインフォームド・コンセントのプロセスで当該研究に関係する医学研究用語の説明を研究参加者に行う必要がありますが、それとは別の次元で、リテラシーとして一般市民がこれら用語を学習できる機会を増やしていく社会的取り組みも重要と考えます。

2019/9/26

特任研究員有澤和代さんのデビュー論文「研究倫理教育効果の評価手法に関する試行的考察 ― 倫理審査の質向上を目的とした倫理審査委員の教育・研修を題材として ―」(有澤和代・神里彩子)が日本生命倫理学会誌『生命倫理』Vol.29 No.1(通巻30号)に掲載されました。

平成27年4月、「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」が施行され、それ以降、倫理審査委員には審査等に必要な知識を習得するための教育・研修を受講することが、倫理審査委員会設置者には倫理審査委員の教育・研修の受講を確保するために必要な措置を講じることが義務付けられました。同指針制定後、教育・研修の実施率は大幅に向上したものと推測されますが、「教育・研修の実施」で満足してしまっている傾向があります。教育・研修の実施が義務付けられているのには「倫理審査の質の向上」という目的があるのであり、この目的に向けて教育・研修が倫理審査委員や倫理審査委員会に対してどのような効果を及ぼしたのかを測定し、評価できる手法が不可欠です。しかし、未だこのような手法は開発されていません。
そこで、本稿では、HRD(人的資源開発)の教育評価手法として評価が高いカークパトリック(Donald L. Kirkpatrick)の4段階評価モデルが倫理審査委員への教育・研修の評価にも応用可能であることを確かめた上で、4段階評価モデルを適用し、評価指標を試行的に作成しました。
このテーマは先行研究も少なく手探りでの検討を要しますが、今後も研究を進めていきたいと思います。

2019/7/16

コラム:新型出生前診断(NIPT) 厚労省での議論に期待したい

2019年7月3日、日本産科婦人科学会(以下、日産婦)は、「NIPTに関する指針については、6月21日付で厚生労働省子ども家庭局母子保健課長通知を鑑み、今後の厚生労働省における議論を見守ることといたしました。したがって本指針の運用は当面行わず、NIPTに関心のある妊婦さんがおられましたらこれまでの指針を遵守する施設にぜひご紹介頂きたいと思います。」と述べる「お知らせ」をホームページに掲載した。ここに言う「NIPTに関する指針」とは、6月22日の理事会にて議決された「母体血を用いた出生前遺伝学的検査(NIPT)に関する指針」(以下、新NIPT指針)のことである。これについて、理事会の前日になって、厚生労働省が、「母体血を用いた出生前遺伝学的検査(NIPT検査)の対応について」(子ども家庭局母子保健課長通知)により、同省でNIPT検査について議論を行うのでそこでの結論を踏まえた対応をするよう指針の運用に「待った」をかけ、日産婦もそれに応じた、という具合だ。こうして、新NIPT指針の運用は保留となり、今後も当面は、平成25年3月から運用している「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査指針」(以下、現NIPT指針)が用いられることとなった。

新NIPT指針でも、検査対象は13番、18番、21番染色体に限定しており、現NIPT指針から変更はない。 また、受検対象者についても、NIPTを受けることを希望する妊婦のうち、次の1~5のいずれかに該当する者とし、現NIPT指針と変わらない。
1.胎児超音波検査で、胎児が染色体数的異常を有する可能性が示唆された者
2.母体血清マーカー検査で、胎児が染色体数的異常を有する可能性が示唆された者
3.染色体数的異常を有する児を妊娠した既往のある者
4.高年齢の妊婦
5.両親のいずれかが均衡型ロバートソン転座を有していて、胎児が 13トリソミーまたは 21 トリソミーとなる可能性が示唆される者

新NIPT指針で何を変更したかと言えば、実施施設の条件である。現NIPT指針では、NIPT実施施設に以下を求め、条件を満たした施設に日本医学会が認可を出している。
① 出生前診断、特に13 番、18 番、21 番染色体の数的異常例について、自然史や支援体制を含めた十分な知識および豊富な診療経験を有する産婦人科医師(産婦人科 専門医)が常時勤務していること
② 出生前診断、特に13 番、18 番、21 番染色体の数的異常例について、自然史や支援体制を含めた十分な知識および豊富な診療経験を有する小児科医師(小児科専門医)が常時勤務していること
③ 上記産婦人科医師、及び、小児科医師の少なくとも一方は臨床遺伝専門医の資格を有すること
④ 遺伝に関する専門外来を設置し、産婦人科医師と小児科医師(および認定遺伝カウンセラーまたは遺伝看護専門看護師)が協力して診療を行っていること
⑤ 妊婦に対する検査施行前の遺伝カウンセリングと検査施行後の結果説明の遺伝カウンセリングのいずれについても、十分な時間をとって行う体制が整えられていること
⑥ 検査施行後妊娠経過の観察を自施設において続けることが可能であること
⑦ 絨毛検査や羊水検査などの侵襲を伴う胎児染色体検査を、妊婦の意向に応じて適切に施行することが可能であること
⑧ 妊婦が侵襲を伴う胎児染色体検査を受けた後も、妊婦のその後の判断に対して支援する体制を有すること

このような実施施設条件について、新NIPT指針では、上記現NIPT指針の条件がほぼ踏襲される「基幹施設」と、緩やかな条件が適用される「連携施設」の2タイプを設け、「連携施設」でもNIPTを実施できるようにしたのである。「連携施設」で緩和された条件としては、まず、②の小児科医師(小児科専門医)が常時勤務しているという条件が外れ、小児科医師とは常時連携し、必要に応じて妊婦が当該小児科医師と面接することが可能であれば良いこととした点がある。また、③に関しては、産婦人科医師は、臨床遺伝専門医であることを原則とするが、それ以外でも、臨床遺伝に関するロールプレイングを含めた研修の修了が認定されている医師は要件を満たすものとみなすとし、臨床遺伝専門医の関与がない場合も認め、④の遺伝外来の設置についても不要とした。もっとも、検査で陽性の結果が確認された場合には、当該妊婦を連携する「基幹施設」へすみやかに紹介し、妊婦は結果に関する検査施行後の出生前カウンセリングを基幹施設において受けることを原則としている。

ネットを検索すれば、「初診時に採血し、検査結果は郵送します」「妊婦の年齢制限なし」「性別判定もします」「低価格で行います」を売りにしているクリニックが簡単に見つかる。このような状況の中、検査前後での出生前カウンセリングの実施など一定程度の基準を満たした認可施設を増やすことが、「現状をはるかに改善できる現実的な指針」と日産婦では考え、今回の新NIPT指針を作成した。これにより、認可施設数は倍増することが見込まれている。
一方、染色体異常をもって生まれてきた子どもについて良く知る立場にある小児科医師の関与が必須でなくなることにより、妊婦やその配偶者が受け取る情報とそれに基づく判断に影響が生じるのではないかと危惧される。日本小児科学会も2019年3月5日に発表した「母体血を用いた出生前遺伝学的検査(NIPT)新指針(案)に関する日本小児科学会の基本姿勢」の中で、次のように述べている。

「私たち小児科医はNIPTの普及が、染色体の病気の子どもたちの存在を否定しかねない、深刻な事態を招いていることを認識しています。NIPTを希望する妊婦とご家族の意思、判断は尊重されるものですが、検査前に質が担保された遺伝カウンセリング等を通じて、染色体の病気の子どもとご家族の実情を知っていただき考える機会を持っていただくことを願っております。小児科医の関与が不十分な状況でNIPTが普及することは、NIPTを希望する妊婦とご家族から、この機会を奪うことを意味しており、染色体の病気のある方とともに生きる社会の実現を遠ざける結果になると危惧しております。」

そして、NIPT実施施設の拡充に関しては、日産婦だけで決めるべきではなく、日本小児科学会を含む多職種、多領域で議論を継続することを求めた。この他、日本人類遺伝学会も新NIPT指針に反対する見解を示した。
各学会はそれぞれの専門分野の医師によって構成される学術集団であり、それゆえ、それぞれの専門的知見や使命感の下、見解に相違が生じることは不思議ではない。また、任意設立・任意加入の学術集団の指針等には強制力はなく、また逆に、人の誕生に係る倫理的問題について、一学術集団の指針等が実質的な強制力を持つことも望ましいことではない。よって、今回、厚生労働省が議論を始めることにした点は評価できる。他方で、母体保護法が胎児異常を理由とした人工妊娠中絶を認めていないなかで、実質的に妊娠の継続・中断を決定するためのNIPTを含む出生前診断は法的に矛盾を抱えている。この点は極めて難しい論点であるが、これについても蓋をせずに、厚生労働省の議論では向き合うことを期待したい。

2019/6/12

読書メモ:高江洲敦『事件現場清掃人が行く』(幻冬舎アウトロー文庫、2012年)

人は病院で臨終を迎え、その後は、通夜・告別式、火葬、そして、四十九日法要が行われていく。これが、現代における人の死の一般的な流れであろう。しかし、誰にも看取られず、一人自宅で亡くなる、いわゆる「孤独死」を迎える人は全国で年間3万人いると言われ、この中には、数週間、あるいは数か月経って、強烈な異臭によってようやく発見されるケースも多い。
東京都の統計によると、平成29年度の総死亡者数は11万6000人余り。そのうち、自宅死亡者数は7,481人で、発見時までの死後経過時間を見ると、死後8~14日が601人、15~30日が532 人、31~90日が398人、91~180日が64人、181~365日が32人、そして、366日以上が9人だった。全体数からの割合は小さいものの、死後一週間以上、誰にも気づかれずにいた人は都内だけで1600人以上いたことになる。年齢や季節、室温によって腐敗の進行に程度差はあるものの、死後3日もすれば腐敗が始まり、ウジやハエなどが発生してくるという。
本書は、腐敗した遺体から流れ出た血液や体液による部屋の汚れ、臭いの除去、虫の駆除、体液が浸み込んだ床の張替え等のリフォーム、遺品整理等を手掛けている特殊清掃業の社長・高江洲敦による著書である。死後日数が経過した遺体が発見されたというニュースに接したとき、疑問が浮かんでくるだろう。腐敗した遺体が発見された場合、その部屋の状態はどうなっているのか、その後、その部屋はどうなるのか、誰がその部屋の清掃をするのか、清掃費用はいくら位で、誰が負担するのか、などなど。本書はこれら疑問に答えてくれる。
故人に気持ちを聞くことは不可能なことだが、私だったら、長期間の放置により変貌した己の身体を嘆くよりも、家族、アパート・マンションの大家や近隣住民に、大きな精神的、そして、経済的負担を負わせてしまうことにあの世で心を痛め、安らかに眠ることなんてできそうもない。
彼は、亡くなった息子の遺体からでた血液や体液を這いつくばって拭き取り、激怒しているアパートの大家にただただ頭を下げ続ける母親に出会い、特殊清掃業に人生をかけることにしたという。「もちろん、簡単な仕事ではありません。誰もやりたがろうとしない仕事です。/でも、そこに主を失った部屋があるかぎり、誰かがこの仕事をしなければなりません。私は死者の痕跡をきれいになくすことで家にふたたび生命を与え、ご遺族や家の持ち主に安心してもらうことを喜びとしています。そうすることで、亡くなった方にも喜んでいただけると信じています。」と彼はいう。確かに、元通りになった部屋を見て、遺族も大家も、そして、故人も(?)、ようやく次に歩き始めることができるだろう。
特殊清掃業についてネットで検索してみると、多くの業者があり、ホームページでそれぞれ自社をアピールしていた。超高齢化社会を迎え、単身世帯が増加し、また、自殺者数も多い現在、ビジネスチャンスをにらんで、新規参入する業者が近年増えているという。特殊清掃業は、密やかながら、現代社会における歯車の一つになっているといえそうだ。正直、お世話になりたくないが、誰もがお世話になる可能性がある。(神里彩子)

2018/12/3

コラム:もういい加減作ろう、AIDに関するルール

2018年11月26日の朝日新聞の社説は「精子提供 改めて議論をおこす時」だった。生殖補助医療関連のことが社説に取り上げられたのは2015年7月12日付「生殖医療 一線を引く議論を」ぶりだろうか。生殖補助医療に関する議論が停滞しているため、嬉しく読んだ。

日本産科婦人科学会の「2017年度倫理審査委員会 登録・調査小委員会報告」によると、2016年のAID(第三者精子提供人工授精)実績は、実施施設数:12施設、患者総数:1,146名、AID周期総数:3,814、妊娠数:141、生産分娩数:98、出生児数:99。社説は、この12の実施施設の中でAIDの総本山と言える慶應大学病院において、この夏からAIDの新規患者の受付を見合わせているという状況を受けての記事だった。
AIDで生まれた子の「生物学的親を知りたい」という望みを尊重すると、精子提供者数が減少し、結果、患者がAIDを受けづらい環境におかれることになる。また、AIDを受けた患者は、子に第三者の精子提供を受けて生まれたことを隠したがる傾向にあると言われる。こうした状況より、日本では、患者の望みを子の望みより優先し、精子提供者の匿名性維持を貫いてきた。しかし、社会的意識も変化する中、AIDで生まれた子が情報開示を求める訴えを起こした場合には、裁判所の命令により精子提供者の情報を当人に開示する可能性がある。そのため、慶応大学病院では、その旨を明記する改訂を説明文書に行ったところ、精子提供者がいなくなったという。
精子を提供するか否か検討している人にとって、自己の情報がAIDで生まれた子に開示される可能性があるということは重要な判断材料である。そのため、この改訂はインフォームド・コンセントの観点から極めて妥当なものであったと考える。他方で、精子提供者がいなくなるあるいは激減すると、AID希望患者は海外にわたってAIDを受けたり、感染症の検査等をしていない精子をネット等を通じて入手・利用するようになることが懸念される。
AIDで生まれた子が、ある日、精子提供者のもとを訪れ、「お父さん、僕を養って下さい。」と言った場合、あるいは、AIDを受けた夫婦の夫が「この子の生物学的父親はあなたですから、あなたが養育して下さい。」と言った場合、精子提供者は養育についての法的責任を負うのだろうか?これについては、「NO」と考えられているが、実のところそれを明確に示す法規定はない。このような中、精子を提供するか考えている男性が、「訴訟になった場合、あなたの提供した精子により誕生した子にあなたの情報が開示される可能性があります」と説明を受ければ、怯むだろう。精子提供者の確保のためにも、AIDで生まれた子の法的親はAIDを受けた夫婦であり、精子提供者ではないことを明確にする法整備が必須だ。この点は、2003年に、法務省法制審議会生殖補助医療関連親子法制部会より方針案が示された(「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療により出生し た子の親子関係に関する民法の特例に関する要綱中間試案」)。しかし、その後断ち切れとなてしまっている。
そして、法的親子関係を明確にしたうえで、AIDで生まれた子のいわゆる「出自を知る権利」についても、どこまで認めるか、ドナー情報の開示請求の条件や手続きについて法制化するべきである。これについても、2003年に発表された厚生科学審議会生殖補助医療部会「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療制度の整備に関する報告書」において、方針案が示されていた。すなわち、「提供された精子・卵子・胚による生殖補助医療により生まれた子または自らが当該生殖補助医療により生まれたかもしれないと考えている者であって、15歳以上の者は、精子・卵子・胚の提供者に関する情報のうち、開示を受けたい情報について、氏名、住所等、提供者を特定できる内容を含め、その開示を請求をすることができる。開示請求に当たり、公的管理運営機関は開示に関する相談に応ずることとし、開示に関する相談があった場合、公的管理運営機関は予想される開示に伴う影響についての説明を行うとともに、開示に係るカウンセリングの機会が保障されていることを相談者に知らせる。特に、相談者が提供者を特定できる個人情報の開示まで希望した場合は特段の配慮を行う。」という内容だ。
議論を再開し、一刻も早くAIDで生まれた子の「出自を知る権利」が保障される体制を整備するべきである。もう15年も棚上げにされている問題であり、その間、多くの子どもが生まれている。これ以上の先延ばしは許されるべきではない。(神里彩子)

2018/11/2

報告:日本臨床スポーツ医学会の第29回学術集会(札幌コンベンションセンター)にて「スポーツ医学における研究倫理」というタイトルで教育講演をさせていただきました(神里彩子)

2018/10/28

読書メモ:村田沙耶香『消滅世界』

1978年の世界で最初の体外受精児誕生は、世界に大きな衝撃を与え、「神への冒涜」「自然の摂理への反逆」といった非難の声も多くあがった。しかし、いまや体外受精は不妊治療クリニックの一般的な診療行為となり、日本では20人に一人が体外受精で誕生している。街に出れば40代と思われる妊婦さんの姿もよく見られ、また、保存していた凍結受精胚を用いて第二子、第三子を産んだという芸能人の報告もごく自然に受け止められている。このように、1978年当時には不自然と考えられていた未来が、今や日常の中に溶け込んでいる。
この小説では、西暦何年頃かは定かでないが、近未来の日本が描かれている-

人々は子供が欲しくなると婚活サイトやパーティでパートナーを見つけて「家族」となり、女性が病院で「科学的交尾」である人工授精を受けて出産する。夫婦はそれぞれアニメ等のキャラクターや人に恋愛したりするが、そこにおいても性行為は汚らわしいものとされて廃れつつある。更に、実験都市千葉では、「家族」システムに代わり、心理学・生物学その他の観点から考案された新しいシステム「楽園(エデン)システム」を採用した実験が行われている。毎年一回、コンピューターで選ばれた住民が一斉に人工授精を受け、生まれた全ての子供はそのままセンターに預けられ、社会全体の子供としてすべての大人から愛情を注がれて育てられる、というシステムだ。産んだ子供を「自分の子供」とする概念はここにはない。このシステムだと、機能不全な「家族」によって育てられるリスクがなく、均一で安定した愛情を受けることで精神的に安定し、頭脳・肉体ともに優秀な子供となるとの研究成果が出ているらしい。開発中の男性用人工子宮を用いた男性の妊娠・出産実験も進められている。

という世界だ。現実世界とオーバーラップするところもあり、妙なリアリティを感じた。
性行為によって誕生し、夫婦が愛し合うことを尊ぶ母親に育てられた主人公の雨音は、自分がこの「正しい世界」に適合できているか不安を抱えている。そんな雨音に友人が言った言葉-「人間はどんどん進化して、魂の形も本能も変わってるの。・・・・誰でも、進化の途中の動物なの」-は、印象に残った。冒頭の体外受精の例をみても、個々人の価値観は変わり、その集合体として形成される「普通」も変遷するものだと。となると、ここに描かれた世界が訪れることも否定できない。
これ以外にも、生殖補助医療技術によって、今とは違う家族観や親子観を生み出すことがありえる。私たちは、どのような世の中にしたいのだろうか。自分の子供や次世代に何を伝えていきたいのだろうか。とかく「技術的に利用可能になった」とか「コストが小さい」、「〇〇もやっている」といった体の良い理由に出会うと思考を停止しがちだが、真摯にこの問いを考え、実践していきたいものである。(神里彩子)

2018/6/14

コラム:動物性集合胚研究に関する規制と特定胚指針の見直しについて

現在、「特定胚の取扱いに関する指針」及び「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律施行規則」の改正案について意見募集(パブコメ)中です。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000983&Mode=0

2010年、東大医科研の中内チームは、多能性幹細胞を用いてマウス体内でラットの膵臓を作製することに成功し、同じ論理で、将来的に、移植を必要とする患者iPS細胞を用いてブタの体内で患者iPS細胞由来臓器を作製・移植できるようにする、という目標を掲げました。これを契機に、日本でも動物性集合胚研究に関する規制の見直しの議論が開始されるようになります。というのも、現行指針では、この目的で動物性集合胚を作成することは認められていますが、作成した動物性集合胚を動物母胎に移植すること、個体を産生することは認められていないためです。
政府内での議論は、内閣府 総合科学技術・イノベーション会議 生命倫理専門調査会からはじまり、そこでの結論(「動物性集合胚を用いた研究の取扱いについて」(2013年8月))を受けて、文科省 科学技術・学術審議会 生命倫理・安全部会 特定胚等研究専門委員会へと議場を移します。その特定胚等研究専門委員会では、科学的観点からの調査・検討、有識者からのヒアリング、そして、それを踏まえた議論が行われました(私も、途中から同専門委員会の委員となり、この議論に参加してきました)。こうした長い道のりを経て、本年3月30日に「動物性集合胚を用いた研究の取扱いについて」がとりまとめられ、それに基づく指針改正案が5月に公表されたのです。

改正案の骨子は以下の通りです。
1)改正の対象とする動物性集合胚は、現時点で研究に用いられることが想定される「一以上の動物胚とヒトの体細胞又はヒト受精胚の胚性細胞とが集合して一体となった胚」に限定する
2)現行指針では、動物性集合胚の作成を移植用臓器の作製を目的とする基礎的研究に限って認めているが、動物性集合胚研究の有用性に鑑み、研究目的による制限をなくす(但し、臨床応用は不可)
3)動物胎内への移植や個体産生は、「人と動物との境界が曖昧となる個体」が産生されないことについて先行研究等の知見を踏まえ十分な科学的説明がなされ、また、その産生を防止するために必要な措置(分化制御技術、胎内における発生過程の段階的な観察など)がとられていることを条件に認める
4)得られたヒト生殖細胞の受精、また、産生された個体の交配は禁止する
5)上記3)4)については、研究計画毎に、倫理審査委員会、及び、文科省専門委員会にて確認する

このように、現行指針から大きく方針転換をする内容となっています。
動物性集合胚研究は、移植用臓器の作製のほか、多能性幹細胞の分化能検証、疾患モデル動物の作製等において有用性があると考えられます。しかし、他方で、「人と動物の境界」、「人の尊厳性」、「動物観」、「動物福祉」など根源的な問いと関係するもので、多様な考え方があると思います。是非、パブコメ制度を利用して、声を届けていただけたらと思います。(神里彩子)

2018/5/27

報告:日本卵子学会(大宮ソニックシティ)にて「生殖医療における生命倫理」というタイトルで教育講演をさせていただきました(神里彩子)

2018/5/15

コラム:研究分野に応じた倫理審査の必要性

2018年5月13日、岡山県立大学で開催された日本栄養・食糧学会にて、「研究倫理のルール:栄養学研究を正しく行うために」というタイトルで講演をさせていただきました。
同学会において研究倫理のセッションを設けたのは始めてとのことで、倫理審査委員会で委員長をされている方、学生指導をしている先生方など、研究倫理に関心の高い方がお集まりくださりました。
栄養学の分野でも、介入研究や侵襲行為を伴う研究は多く行われており、「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」を遵守して研究が行われます。しかし、指針やガイダンスに記載されている内容は医学研究を念頭に書かれているものなので、栄養学研究の倫理審査において判断に迷うことは多いようです。
審査対象となる研究分野について、その特徴を踏まえた審査でなければ適正な倫理審査とはいえません。倫理審査委員会の集約化が叫ばれる昨今、ゲノム研究、がん研究、小児医療研究、看護研究、栄養学研究、スポーツ医学研究など研究領域毎に、専門性の高い倫理審査委員会を設け、審査を集約化していくことは、適正な倫理審査を実現するために考えるべき方向性の一つではないでしょうか?
(神里彩子)

2018/5/13

報告:日本栄養・食糧学会(岡山県立大学)にて「研究倫理のルール:栄養学研究を正しく行うために」というタイトルで講演をさせていただきました(神里彩子)

2018/5/1

コラム:夫に無断で凍結胚を移植した場合、生まれた子と夫の親子関係は?

2018年4月26日、大阪高裁で親子関係不存在確認請求訴訟に関して、控訴棄却の判決が出ました。
外国籍を有する男性Xとその妻は体外受精・胚移植を受け、第一子を得ましたが、残りの胚をクリニックで凍結保存していました。4年後、すでに別居していた妻がXの同意を得ずに、凍結保存していた胚を用いて妊娠し、Yを出産したことから、Xが自身とYとの間に法律上の親子関係が存在しないことの確認を求め、提訴したという事案です。夫婦はYが誕生後、離婚をしています。
民法772条1項は、妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の嫡出子と推定する旨規定しています。但し、事実上の離婚をして夫婦の実態が失われていたり、遠隔地に居住して夫婦間に性的関係を持つ機会がなかったことが外形上明らかな特別な事情がある場合には、上記推定を受けない嫡出子に当たり、今回Xが求めたように、親子関係不存在確認の訴えをもって夫と子との間の父子関係の存否を争うことができると解されています。
本件について、大阪高裁は、Xが別居中も子どもの世話のために元妻宅を訪れたり、旅行に行くなどしていたことから特別な事情はないと判断しました。また、夫の同意がないことについても、外形的に明らかな事実と同視することはできないため、嫡出推定を覆す特別な事情とみることはできない、すなわちYは推定を受けない嫡出子には当たらないとし、控訴を棄却する判決を出しました。なお、1審・奈良家庭裁判所判決では、生まれた子と夫との間に法的親子関係が認められるためには、胚を妻に移植する時点で夫が生まれた子どもを受け入れることに同意していることが必要としましたが、大阪高裁では「判断の要がなく、判断しない。」としています。
民法772条1項は、子の利益保護の観点から法的親子関係の早期安定を目的とするもので、DNA鑑定で血縁関係が否定された場合でも嫡出推定は覆されないとする最高裁判決が出ています。本件は、婚姻解消前に生まれた子であること、生物学的つながりのある子であることを鑑みると、現行法の下では、1審、2審共に順当な判決だったと思います。
しかし、Xの嫡出子推定が及ぶ子と判断されてもYが受ける精神的ダメージはとても大きいものになるでしょう。未然にこのような悲劇が起きないようにすることも、重要な子の利益保護のはずです。では、未然に防ぐためにはどうしたら良いでしょうか?これには二つの対応が必要と考えます。まず、 一つ目は、病院やクリニックにおける夫婦への十分な説明と、そのうえでの同意の徹底化です。説明には、同意をした場合の効果や、同意を取り消すための方法、凍結胚を妻に移植する際に必要な手続き等についても含まれるべきです。また、同意書はそれぞれの意思を明確に表示できるよう、夫婦それぞれが個別に作成した方が良いでしょう。イギリスではそのような方法がとられています。一定の基準を満たす説明を全国の病院やクリニックで受けられるよう、説明文書のひな型は、学会等が作成し、提供することが望まれます。 二つ目は、生殖補助医療に関する法整備を行うことです。これまで法的親子関係の整備は提供精子・卵子・胚を用いた生殖補助医療の課題の一つとして認識されてきました。しかし、夫婦間の体外受精であっても法的親子関係の問題が生じることが本件で明らかになりました。生殖補助医療の特殊性を考慮した法的親子関係の規定の整備が必要です。
生殖補助医療によって生まれてきた子どもたちが大人のトラブルに巻き込まれないよう、国や学会、病院、クリニックにはできるだけの対応をとる社会的責任があると思います。(神里彩子)

2018/4/1

倫理審査委員のための倫理研修用動画教材提供サイト

報告:神里彩子・武藤香織編『医学・生命科学の研究倫理ハンドブック』(東京大学出版会、2015年)の3刷が刊行されました。
http://www.utp.or.jp/book/b307115.html

増刷ではありますが、2017年5月施行の医学系研究倫理指針の改正に対応するための変更を加えています。

2018/4/1

報告:神里彩子「出生前診断、特にNIPTは社会にどのような影響を与えるか」が収録された書籍『倫理的に考える医療の論点』(浅井篤・小西恵美子・大北全俊編、日本看護協会出版会、2018年)が1月末に刊行されました。 http://www.jnapc.co.jp/products/detail.php?product_id=3565倫理審査委員の必要性と倫理審査委員会の役割

この本は、医療における20の諸問題について、論者が意見を述べ、それに対して編者がコメントする、という形で構成されており、読み応えのある一冊です。
私は出生前診断について担当させていただきました。NIPTの倫理的懸念事項を、イギリスのナッフィールド生命倫理評議会(Nuffield Bioethics Council)が2017年に発表した報告書「無侵襲的出生前遺伝学的検査:倫理的課題」を参考にしつつまとめています。

先天性の疾患を持たないで生まれてきたとしても、ほどんどの人は、人生のある時点で、大きな病気に罹ったり、障害を持つことを経験します。また、遺伝学的検査の普及により、今後、自分の遺伝子の「異常」を知る機会も増えていくでしょう。そうした中、疾患や障害を持っている人を排除するような思想は、自分自身も社会から排除されるかもしれないという極めて緊張感の高い社会を作り出すことにつながります。私たち、そして次世代の人々は、そのような息苦しい社会を望んでいるのでしょうか。色々な人が共生する社会の方が生きやすくないでしょうか。出生前診断の許容性については、出生前診断特有の倫理的懸念事項の考察と共に、どのような社会を私たちは望むのかという大きな視点をもって議論する必要があると思います。

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東京大学 医科学研究所 生命倫理研究分野